中津川 遥火

正義の味方が邪悪な神を殺し、世界に平和が戻った夜、神を見失った哀れな少女が土砂降りの雨に打たれながら泣きじゃくり、捨てられたちっぽけな神様を必死に探してごみ箱を漁っている……そんな光景が、ときどき目に浮かぶんだ。

「世界空中写真帳」の時代

ロプ・ノールの話や、このペルーの廃墟の話などを読んでいると、やっぱりまだこの世界が広いもののように思われて来るのである。(略)一日も早く「世界空中写真帳」といったようなものが完成されるといいと思う。それが完成するとわれわれの世界観は一変し、それはまたわれわれの人生観社会観にもかなりな影響を及ぼすであろう。そうして在来の哲学などでは間に合わない新しい天地が開けるであろうと夢想される。


(寺田寅彦「ロプ・ノールその他」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2352_13819.html )

 

 昭和7(1932)年の寺田の述懐から90年余りを経た今日、彼が夢見た「世界空中写真帳」は、Googleマップ等の地図・衛星写真サービスの形で、万人に対して等しく日常的に提供されている。写真の精細度の高低や撮影・閲覧制限の解除の度合いに応じて、受益に必要なコストが変わっていくという相応のサービスレベルの差はあるものの、まだ人工衛星などという代物が純然たる空想の世界の中にしかなかった寺田の時代の夢想は、いま現実化した産物として僕達の目の前にある。
 では現代の僕達は、この「世界空中写真帳」の日常化によって、寺田が夢見ていたように「われわれの人生観社会観にもかなりな影響を及ぼ」され、「在来の哲学などでは間に合わない新しい天地が開け」ただろうか。

 

 アポロ計画で人類が月面に降り立ち、月面の様子や月から地球を眺めた景色などが、無人探査機の写真だけでなく生きた人の証言としても語られた時、それは米ソ宇宙開発競争におけるアメリカの勝利というだけでなく(米政府が多額の出資を許容した主要因はむしろそちらに近いが)、広く人類全体の科学技術の成果としても称賛された。月面に立つ人間の姿は、誰の目にも見て取れる非常にわかりやすい、「前人未踏の地の征服」の具現化したビジョンであり、アポロ計画に要求されてきた難解な科学的・工学的知識などまるで持ち合わせていない僕のようなタイプの市井の凡俗ですら、その偉業に称賛を送ることを惜しまなかった。
 だがアポロ計画の時代とは、アメリカにとってはベトナム戦争の時代でもあった。NHKスペシャル映像の世紀」の中では、当時ベトナムにいたアメリカ兵の印象的な手記が紹介されていた。

それは、ひどく不気味な光景だった。アメリカという国は、ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万の我々全員よりも、月面にいるたった2人の男のことをずっと心配していたのだ。得体のしれない感情がこみ上げてきた。

NHKスペシャル映像の世紀 第9集・ベトナムの衝撃」)


 人類史上最先端の科学技術の結晶と、技術的手段の差異こそあれ根本的には昔ながらの「殺るか、殺られるか」の命の遣り取りに集約される泥臭い戦場とは、同じ時代に隣り合って存在していた。

 それは時代を経た今でも変わることはなく、昨年来世界を震撼させているロシアのウクライナ侵攻では、インターネット上の情報戦や民間衛星通信網、ドローン活用などといった新世代のテクノロジーが出現する一方で、塹壕線を巡る一進一退の血みどろの地上戦や非戦闘員に対する略奪・暴行などといった旧態依然たる古典的戦争の側面も多数報じられており、まるで異なる時代が同じ戦線の中で併存しているかのようでもある。


 僕達は時代の流れを、ともすれば一次元の数直線に沿って左端から右端へと真っ直ぐ進んでいき、その間に人類の運命は常に右肩上がりの( y=ax や y=ax^2 等の)グラフのように、絶えず上向きに文明を“進歩”させていく……という単純な図式で思い描きがちになるようだ。でも実際には、不特定多数の人間や社会が絶えず複雑な行為連関の中で関係し合っている人間社会は、常に右肩上がりに文明を進歩させていくと予め定められているわけではないし、仮に“進歩”と呼べるフェーズの中にいたとしても、その進みかたは決して一様ではなく常に跛行的な歩みを見せる。

 過去を振り返れば、時系列的な進歩を人類史の必然と捉える進歩史観は、必ずしも社会の常識であったとは限らない。キリスト教の伝統的な教義としての聖書解釈では、神による世界創造の後アダムとイヴがエデンの園に暮らしていた時代こそが人類の黄金期であって、原罪により楽園から追放された後の人類の歩みは、創世記の頃よりもより劣った、堕落した有り様だという基本的な認識が共有されている。
 また近世ヨーロッパの「ルネサンス(Renaissance)」運動は、古代ギリシャ・ローマのいわゆる古典古代時代の文明に比べて、その後のヨーロッパはカトリックの精神的支配の下でずっと停滞してきたため(いわゆる“暗黒の中世”)、古典古代の優れた文化を復興させるのだという思想が基調となっている。
 日本においても平安時代後期には、仏陀の入滅後に正しい教えが伝えられなくなることで次第に世が乱れていき、千年後には末法の世が訪れるという末法思想が流行している。
 いずれの場合も、人類社会はずっと過去の方が優れていてその後の人類史はより劣った方へと遷移しているという、進歩史観とは正反対の“右肩下がり”の歴史観に基づく発想であり、右肩上がりの進歩史観は、歴史的には必ずしも“当たり前の常識”というわけではなかった。


 新しいテクノロジーが世に出現した時、それが「われわれの人生観社会観にもかなりな影響を及ぼす」としても、果たして「在来の哲学などでは間に合わない新しい天地が開ける」というような、単純な右肩上がりの“進歩”を期待してしまっていいのか、もしかしたら人類が旧来から持ち続けている土俗的な偏見や、旧弊として時代の彼方に葬り去ったはずの悪徳を、技術的手段によって復活・加速させるような可能性をも同時に孕んでいるのではないか。現代の僕は、90年前の寺田寅彦ほど楽観的にはなれないでいる。